工房縁起 えさが足りん


大学を出てから、公立高校の非常勤講師になりました。
そこで、制作を続けていたのですが、3年目にはいったところで
いろんなことがいっぺんに起こり、
その波をもろにをかぶってしまったのです。

いきなり作る場所を封印されてしまいました。
制作をしながら教えてきた、昨年と同じ条件で、という内容で、
今年度の契約をしてから、1ヶ月しか経たない5月のことでした。

詳細は忘れたことにしておきますが、
原因は”風が吹けば桶屋が儲かる”の真反対を地でいった感じ。
その頃は、若くて美人で、才能豊かだったからねぇ〜、
(誰もいってくれないから自分で言ってみた)
妬まれちゃったのね、多分。はい。

7ヶ月先の個展はもう決まっていましたから、大変です。
手当たり次第、まさに袖がすれ違っただけのご縁の方にも
伝を求めて制作できる場所を探しました。

飛び込んでいった私に場所を貸してくださった
東松山の陶芸作家中澤庸江さん。
使えそうな土地の情報を下さった沢山の皆様、
ホントにお世話になりました。

借地に工房をプレハブで建てようか、
過疎対策でその頃はやっていた自治体の芸術家誘致をうけようか・・・
二十歳そこそこのわが子の危うさを、見かねたのでしょう、
結局は両親が助けをくれました。

「一緒にいってやるから、不動産屋に行かないか。
僕たちも今はマンション暮らしだけれど、年老いて、動けなくなったら、
一緒に住めるように土地を探そう。そこに工房を建てるのは、どうだろう。」

日曜の朝、以前なら、さっさとおきて生徒のいない学校で、制作をしていた私が、
その場所をなくして、ベッドで布団をかぶっている部屋へ、
父が何気なく入って来て言ってくれました。
母はあさごはんを作って、がんばって陽気に送り出してくれました。

その日から始まった不動産めぐりに、もう一人、
幸か不幸か巻き込まれた人がいました。今の夫です。
その時点でどの程度、自分も住む羽目になると実感していたかは謎ですが、
地形・地質を見る商売の人ですので、地すべりや、
水の流れをみてはアドバイスをくれていました。

こうやって改めて読むと、
人の情けと、親掛かりと、夫のおかげ、だけみたいですね。
私自身は、いつも泥んこ夢中でいましたから、
ぜんぜん気がついていなかったのですが、
たった今、これを書いていて、そんな気がしてきました。

あれ?

とにかく、工房は、翌年に立ち上がり、
1990年4月1日引越しをして、
今の工房での暮らしが始まったのでした。(2004年10月12日)



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